リスボン旅行記のページです
 リスボン旅行記 ***ヨーロッパ最西端の地へ***
  12月25日の昼にポルトガルの首都リスボンに向けて出発。飛行機で1時間ですから、国外旅行というよりちょっと国内を移動するという感覚に近いですね。電車でも5時間程で行けるのですが、パック式のコースは全て飛行機のためこちらを選びました。ヨーロッパ人がヨーロッパ内を旅行する場合は、EU(European Union)での取り決めによりパスポートは要らず居住許可書のみでOKです。私の場合も居住許可書を持っているため、一応持っては行ったもののパスポートは不要でした。11時間かかった前回のキューバ旅行時とは違い、疲れる間もなくリスボンに到着。町の雰囲気はスペインと似ているな、という第一印象でした。


 ***ポルトガルについて***

 ポルトガルは日本でもサッカーでお馴染みの国ですが、国の歴史についても少し紹介したいと思います。ポルトガルはイベリア半島の最西端に位置する南北に長い国です。人口約1000万人、首都リスボンが190万人ですから小さな国と言えます。母国語はポルトガル語で、かつての植民地だったブラジルやアフリカ数か国でも話されています。ご存じのように15世紀からしばらくは世界はポルトガルとスペインが中心で、そのいわゆる大航海時代にポルトガルはアフリカやアジアに進出して経済拠点を固めて行きました。バスコ・ダ・ガマは日本でも有名なポルトガルの航海士ですね。ポストガルにはスペインに比べるとずっと多くの黒人が住んでいますが、これは当時植民地のアフリカ各地から連れて来られた人々です。

 日本とポルトガルの関係は16世紀の火縄銃とキリスト教の伝来(宣教師ザビエルはスペイン人ですが、ポルトガル王の命を受けていた)で余りにも有名で、両国の通商関係は南蛮貿易と呼ばれていました。江戸時代に入りキリスト教禁止そして鎖国によって両国の通商は途絶えますが、現在に至るまで互いに敵対関係に立った事は一度も無く、日本と常に友好関係を維持し続けている数少ない国の一つと言えます。

 このように世界の盟主であったポルトガルも19世紀以降はスペインとともに衰退し、20世紀はそのスペインと並んで経済・科学の分野でヨーロッパ一の後進国という位置付けになってしまいました。しかしソビエト崩壊後は盛り返し、現在はEUにも加盟して徐々に発展を遂げて来ています。ちなみにポルトガルではまだオリンピックは開かれておらず、ポルトガル国民の悲願の一つかも知れませんね。



  ***リスボン市内観光***

<12月25日>
 初日は2時頃ホテルに着いたため、ゆっくり観光をして回るには中途半端な時間帯でした。そこでホテルの近くのエドワルド7世公園や市街地を散策する事にしました。リスボンは海から向かってずっと登り坂になっており、下の写真でもお分かりのようにこのエドワルド7世公園も傾斜の途中に作られています。その後市の中心街に向かう時も坂を下っていきました。街の様子はスペインの様に道路中央にも歩道があっていかにもヨーロッパらしい雰囲気をかもし出しています。また所々に急激な坂もあり、専用の電車が走っていました。


エドワルド7世公園の上から見た町の様子(左)と中心街を見下ろすように建っているドン・ペドロ4世像

 この日はクリスマス休日とあって多くの店が閉まっており、レストランを探すのに苦労しましたが、街の中央通りに小綺麗なレストランを見付けたので、そこで昼食を取りました。ソース入りの牛肉とライスのセットを注文しましたが、スペイン料理よりやや味付けが軽く食べやすいと思いました。その後周りをふらふらと歩きながら時間をつぶし、初日の観光を終えました。ホテルの方は3つ星でしたが、やはりヨーロッパとあってかキューバ観光の時の4つ星ホテルよりずっと良い内容でした。



  <12月26日>
 2日目はいよいよメインの観光スポットへ。今回の旅行で一番見たかったのが発見の像。大航海時代の業績を記念して1960年に作られたもので、広大なタホ川のほとりに立っています。新世界に向かって飛び出さんばかりの航海士達の希望の気持ちが伝わってきます。このモニュメントの屋上にも上がる事が出来ましたが、リスボン市内ののどかな光景を見渡す事が出来ました。このモニュメントから少し離れたところにはベレムの塔がありますが、かつてはリスボンへの出入りを監視する役目があったそうです。構造はお城のような優雅さがあり、とりあえず記念撮影もしました。タホ川から少し離れたところには、バスコ・ダ・ガマのインド行路発見を記念して16世紀初頭に作られたモステリオ・ドス・ヘロニモスという巨大な教会があります。何でも植民地で得た莫大な利益が源になっているそうで、当時のポルトガルの裕福さが伺えます。内部はスペインの教会と同じく非常に天井の高い構造となっていました。またこの教会の一部には海洋博物館があり、大航海時代のポルトガルの功績の足跡を見る事が出来ます。日本に最初に来たのは16世紀初頭ですが、それ以前の世界地図では日本の形が非常に不正確で、オーストラリア大陸はまだ存在しない事になっています。ヨーロッパ人から見てこれらの地域はまさに未開地だったのだと思います。


左から発見の像、モステリオ・ドス・ヘロニモス、リスボン市内の東側の様子


ベレムの塔の全景(左)と塔の前での記念撮影。かなり小さくなってしまいました。

 この日はこのタホ川のほとりで昼食を取り、その後はバスで少し離れた所にある美術館へ行きました。宗教画が中心でスペインにも同じような美術館がいくつかありますが、いつも思う事があります。それは16世紀ぐらいを境にして画調が大きく変わる事です。特に15世紀頃までの絵を見ると、各聖人とも無表情かつ画一的でとにかく高貴さだけを見て取る事が出来ます。しかし16世紀になると、何か拠り所を求めるような表情からいかにも人間らしい心の動きを感じ取る事が出来ます。このような変化と言うのは何か政治的・宗教的な動きと連動しているものなのか、それとも単に美術分野の中だけでの変化なのか、興味深い所です。



 ***シントラ観光***

<12月27日>
 旅行最終日はリスボン中心部から北西部にあるシントラへ。電車で30分程で行けます。ここは一つの小さな地区が観光地になっており、かつてのポルトガル王が避暑地に利用した場所として世界的にも有名なようです。そのせいか昨日の観光地をも含めて、日本人旅行者がかなりいました。各観光スポットは山の中腹や頂上にありバスを利用するのが便利ですが、私は全て歩いて訪れました。
 駅から歩いて10分程、まず見えるのがパラシオ・ナショナル・デ・シントラという建物です。15世紀に作られ迎賓館のような役割を果たしたそうで、その後何度が改装されているせいか最近建てられたかのように見えます。中にはいくつものサロンがあり、当時の華やかな貴族たちの社交生活が伺えます。そしてこの迎賓館から丘の上へ登って行くと、キンタ・ダ・レガレイラと呼ばれる広い庭園を含んだ建物があります。20世紀初頭に大富豪の別荘として作られましたが、むしろ先程の迎賓館より古びて見えます。中には絵画や彫刻のコレクションがあり、庭園内も道が曲がりくねっていて散策やクロカン(?)にはもってこいの場所だと思います。裕福であるがゆえに、一見退屈そうに思えるシントラでの生活も気ままで良かったのでしょうか。庭園内のレストランで休憩した後は、山頂部にあるモーロ城塞に向かう事にしました。地図で見るとすぐ歩いて行けそうな気がしたのですが、実際はずっと上りなので大変!ヒイヒイ言いながらやっとたどり着きました。12世紀に作られ19世紀には改築されているそうですが、風雨にさらされているせいか12世紀に作られたままのような雰囲気がしました。この城塞は出来てすぐにキリスト教勢力に占領されたという事ですが、平地との交通の便は非常に悪いですし監視塔のような役割を果たしていたのでしょうか?


左からパラシオ・ナショナル・デ・シントラ、キンタ・ダ・レガレイラ、モーロ城塞

 こうして閑静ながらも優雅な貴族生活を偲ばせるシントラを後にして、全てのリスボン旅行が終了。夜8時半の飛行機でマドリッドへと向かいました。この帰りの飛行機内はガラガラで、半日掛りのフライト時なら快適だったと思います。



旅行記その2
「とにかくスペインと似ているポルトガルの雰囲気」、「ポルトガルではどの位スペイン語が通じるのか?」



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